日本人の血に流れる神道が素晴らしい!神道の現代の生活への応用
神道は私たちの生活に密着していた
私自身、日本神話や古事記、日本書紀など神様系のお話を知るようになったのは実はここ二、三年の話でそれまで無縁だった。神様なんてこの世には存在するわけない!無宗教だし!私!と言った具合に生きてきたのだが、これは大きな勘違いであったようだ。
そもそも、神道とは宗教ではない。〇〇教という教えではないので、誰かや〇〇神を教祖とするものではなく。日本人は全てに神様が宿ると考えてきていて、それは人の生きる「道」としてのものなのだ。
(「宗教みたい」と揶揄することもそれはあまりに宗教の定義が狭すぎる中での話で宗教をちゃんと理解しているものからすれば意味がわからないのではないかと個人的には思う。)
それで、お正月や、七五三、節分、お宮参り...これら全て神道に基づくものだったので、無縁どころかめっちゃ神道に沿ってみんな知らず知らずに生きているわけだ。
八百万の神様を敬い、四季の移ろいと恵に感謝する神道は日本古来のものとして私たちの生活に根付いていたわけ!!
しかし、神道は宗教として聖典や戒律もないので、はっきり「私は神道を信じている!!」という認識はほぼみんな持っていないということだ。でも、文化や価値観は紛れもなく神道。宗教というよりも生活背景と言った方がしっくりくる。
お神輿も山車も、神楽も、もっというと湯船に浸かるというこの文化も神道そのもの。これってすごいな!!と思うわけだ。緩やかながらもしっかりと私たち日本人は神様と繋がった文化を生まれながらにして持っているってこと。
私が意識し始めた神道の応用
・朝の掃除
玄関にはアメノイワトワケさまという神様が。神社でいう鳥居であり、外の世界と自分の家である神域とを隔てる結界として出入りする祓いの場所にしたい。
居間は氏神様。台所は竈神。お風呂と洗面所はミツハノメさま。トイレは厠神。寝室には枕神。クローゼットには納戸神。鏡にはイシコリドメさま。庭には屋敷神。不要品にも付喪神がいらっしゃるので、感謝を持って破棄する。
思えば、私が芸事一筋、弟子入りしていた頃は、朝早く、お稽古場に到着したらお稽古場全てに感謝しながら大掃除から一日を始めさせられていた。チリや指紋一つないくらいにピカピカにしてから稽古が始まる。そうして、道具や場所に感謝して、向き合うその心が芸を磨くと教えられてきた。
掃除をしていると自分の内面も清められていくので、1日のスタートにとてもいいなと思い、我が家では家族総出で箒とハタキと雑巾を使っての掃除から1日を始めることにしている。その際「ありがとう」と言葉にして、言霊を使って家の気を上げていくようにしている。
・お風呂に入ってパジャマを着る
身嗜みは自分を清めるのにとても大切なこと。「嗜む」は悪い結果にならないように気をつけるという意味なので、休みの日だからと言って、一日中パジャマで過ごさないようにする。
イザナギが黄泉比良坂を引き返して、黄泉の国から戻ってきたとき穢れた身を清めるのに身につけていた服を全て脱ぎ捨てて川に浸かり身をすすいだそう。その脱ぎ捨てた衣服からは煩いをもたらす神が生まれたそうだ。なので、脱いだ服はなるべく脱衣場に長く溜めないように速やかに洗濯する事。このイザナギの禊は日本人の入浴にとても似ている。風呂から出たらよく汗を吸収する自然素材の新しいパジャマに着替えて、毎日同じパジャマを着ないようにする。
穢れをすすいだ清らかな水につかるイザナギからは三柱の神様が生まれた、その一柱が天照大神。
湯船に浸かると生き返る感じがするけれども、これはあながち間違いじゃないというか、その日電車に長時間乗ったときやたくさんの人にあったとき、汗や砂埃にまみれたときはゆっくり塩風呂に浸かりたい。
波動が下がっているときは遅刻や不始末が多くなる
小さなうっかりミスが大きな災いをもたらす。大事件とはたまたま運が悪くていきなり起きたというよりも小さな小さなミスがたくさん重なった結果引き起こされるケースが多い。
自分や家の気が乱れ、波動が下がってくると、ミスが多くなってしまう。そんな時こそ、一つ一つに感謝をして、丁寧に暮らす。日々の暮らしの中で私たちの心身に垢のように積もり積もっていく罪穢れを清めて祓う。生きているだけで、他の命をいただいているし、それは罪なのだ。人にも迷惑をかけたり、思わぬところで人を傷つけてしまっていたりもする。
なので普段から、そうしたことをしながらも生かされていることに感謝して、生活したいな〜と思う。