国民みんなが好きなことをして働かなくなるなんてことは有り得ない
よく「好きを仕事に」という論に対して、国民みんながやりたくない仕事・労働をやめて好き勝手やり出したら社会は回らなくなる!!と言う人がいる。
しかし、それは有り得ない。
「好き勝手に生きる」という自由を手に入れられる人、そこに到達できる人は限られているからだ。しかし誰もがやろうと思えばやれることでもあり、そこに必須条件はない。だからこそ、誰もが叶えられることではない。
少なくとも…好き勝手、自分勝手に生きる人間のことを批判してる人がいる以上、全員が好き勝手に生きるような事態にはならないだろう。彼らは他者をどんな理由にせよ「批判する」という精神を持ってることで(口に出す出さない以前のレベルでも)、まず自分で自分のその道を進めなくしていることに気付いていない。
「批判する」ということは無意識的でも自分の人生に縛りを加えるということだ。
そしてさらに言うと「好き勝手生きる」といえる程、自分の好きは何かをわかっている人は少ないのだ。仮に死ぬまでにやりたい100のリストを作ってみたらいい。大概は「○○に行く」が多めになると思う。
100億円あったら何をする?の質問にも案外、ありきたりな答えしか持ち合わせていない。
人は「生きるために働く」から解放された時、きっと生まれて初めて「生きる意味や目的」について本気で向き合う羽目になるのだと思う。自由を求めるけれど、実際には縛られてる安心感を無意識的に享受しているのだ。
本当の自由が訪れたとき、何をしたらいいのか、何のために生きたらいいのか、蓋を開けたら何もない空っぽの自分に直面する恐怖よりもずっと、上司に、夫に妻に、子供に社会に会社に、文句垂れてる方が楽なのだ。
だから、インフラが崩壊するほど、みんなが好き勝手やって働かなくなる社会はもうずっとずっと人間の意識レベルが進化した何万年か先になるのではないかなと私は思う。
AIの登場でうんたらかんたらはまた別の機会に書こうかな。