大瀧冬佳のブログ

男児4人の母が幸せな人生のために暮らしと経済と意識について語るブログ

有益な情報はどこにある??誰が運んでくれる??


昨日の投稿、最近の投稿、今までの投稿。
どれだけの方が見てくれているか
皆目見当もつかないわけだが
見てくれている方が必ずしも
「いいね」してるわけじゃない。
私は一旦Facebookをお休みして
そこから行動を変えたというよりも
意識が変わったために
ただまたFacebookに戻ってきたのではなく
全く異なるスタンスで発信をしている。
答えを言うと意図なく発信するようになった。
Facebookをはじめとしたネットでの情報収集は
3年前からネットには「ジャンク情報」で飽和し
ネット離れが予測されていた
有益な情報がなくなるのかというとそうではなく
埋もれてしまったり、
よりクローズドなところへ保管されていくということ
クローズドなところ≠オンラインサロン、非公開グループ
なのをよく認識した方がいいと思う
これはつまり誰かの「意図」のある情報で
本当に本当に私たちが知りたい情報は
的を絞って「教えてください」と頭を下げ理由を述べ、
情報の持ち主の心を揺さぶった先にあるのだ。
的を絞るとは対相手ではなく
対自分であって内面のより核の部分。
自分は何を知りたいのか
なぜ知りたいのか
どうなりたいのか。
これは何かを極めるときすべてに通ずること!
ある一定のラインまでは
それがビジネスとなっているので
そこまではお金払えば喜んで教えてもらえる
「お客様として」ね。
(資格なども同様に。)
それを越えたところのものを
ものにしようと思ったとき
幾重にも関門が用意されているんだ。
本当の学びが始まるのはじつはここからだ。
プロになる道はそれを
突破してきた人だと思ってる。

読める本がなくなってしまった

本屋さんに何時間でもいれたし、毎月好きなだけ本を買っていいという日を設けて1万でも2万でも本にだけお金を使ってきた。

 

それくらい本が好きで好きで、読み漁った。

 

しかしここ三年、とくに去年から本がどうしても読めなくなってしまった。買っても買っても、1冊読みきれない。途中までしか読んでいない本が溜まっていく。読めないというのは、読んでいる途中で興味が失せてしまって内容が頭に全く入ってこなくなるのだ。目が滑って何度読んでも入ってこない。

 

それはネットでもそうだし、文字自体が読めなくなってしまったのかな??と思っていたが、実はそれだけではなく…映画も見れなくなってしまった。時期もちょうど同じ。舞台もダンスも見ていられない。まだ途中なのに我慢できなくなって席を立つことも多くて、最近はお誘いがあっても見に行かなくなった、と言うより行けなくなった。

 

でも活字が読みたくて仕方ないし、映画も見たいし、舞台もダンスも見たい。映画だって、一日一本、毎日みるくらい好きなのだ。

 

どうしたもんかと困っていたが、今日、なぜこうなっているのかがわかった。

 

1冊の本との出会いで理由が解明された。

その本は「パワーかフォースか」という本で、ここに理由が書いてある。私、この本はすごい勢いで文字が脳に吸収されていった。読むより速いスピードでグングン頭に入っていき、今まで渇望していた活字欲求がすごく満たされていくのを感じた。この感覚は数年ぶりだったから嬉しくて嬉しくて。

 

あんまり書けない内容なので、興味ある人は自己責任の元、読んでみてください。パラダイムショックが起きてしまうかもしれないから、私はここには書かずにいます。

 

 

どんなにどんなに調べても分からなかった世の中の秘密

その世の中の秘密は、調べても出てこない。ましてやネットなんかで落ちてる情報ではない。

でも、私たちの知らないところでその仕組みは当たり前に回っていて、そして別に隠されているわけでも秘密にされてるわけでもなかった。

意識の問題なだけで、到達できるかはその人の意識次第。素直さや賢さ…当たり前のことを言うけれど、頭の柔らかさなのだなと。自分をどれくらい内観できているか。それは表面的なことではなく、芯に深くの内観。

Why?と聞かれたらBecause~で答えることとか、非常にシンプルなんだけど、多くの人はどんどん取り繕うことばかりが上手くなり『自分はどうしたいか』が出てこなくなるみたいだ。

蛇足というやつですね。

余計なものを沢山つけて本質が分からなくなる。シンプルに『で?』というところは言えなくなっている。基礎だけど、それが出来ないうちに引き寄せや潜在意識はとてもじゃないけど使えない。宇宙と交信するのはモードを切替えて話すことなんだけど、それ以前に地球の周波数としてまともな受け答えをできるようにしてほしいところ。

私が分かったことは金運アップ金運アップってやっても、やっぱり本質的なことではないので本当におまじないの気休めレベルだったんだなと。圧倒的に別の次元がそこに広がっていたのが、本当にびっくり。

 

私の状況、最近の変化を、人は『騙されてる』とか『詐欺にあってる』と遠目から様子を伺ってる人も少なからずいるとは思うんだけど、騙されて欲しいんだろうなーと思う。

どうぞ心配していてくださいって思います。で、40代だろうが、50代だろうが、定年を迎えた方であろうが…美味しい話にたくさんの勉強代を(人に言わないけれど)割とみんな払ってるんだなと。若い人だけだと思っていたけど、いやいや全然そんなことない。

でも、それって何で騙されてしまったか、ちゃんと理由がある。そもそもどこで間違えていたか、原理原則があって、本当にそれに反した結果なだけなんだよね。

それを紐解けばいいだけなんだよ!!!

 

私が人のためにできること

私の強みは上に上にと常に向上心と好奇心を持って、多方面に伸びていけることと思います。

たとえそれが人からは無理だ、ありえないと言われることでも自分を信じて進んでいける信じる強さがあると思います。

そこで、私が果敢に習得してきたノウハウや世界観、価値観を多くの人にシェアし。それを垣間見て気付いた人からどんどん真の幸せを私のように掴んでいけたらいいと思っています。

まず第一に「プライド」や「欲望」「不安」「恥」「怒り」などに囚われていたら、そこから抜け出すフェーズにとぶこと。これはれっきとした臨界点が存在していて、ここを超えると人生は上手くいくようにできています。このフェーズを超えない人は何をしてもうまくいかないという人生を引き寄せます。これは自分が飽きるか、学ぶまで繰り返し繰り返し手を替え品を替え災難やトラブルが起こるようにできているんですね。

ここを抜けた人は、一気に環境の変化、付き合う人の変化というギフトが与えられます。関わる人にネガティブな要素を持つ人はいなくなります。「まとも」な生活が送れるようになります。幸せを感じる瞬間もすごく増えていきます。自分を変えてきた「勇気」によってもたらされるものです。

私はこの次のフェーズについて最近はたくさんのことを日々ダウンロードしてます。でも今はどのように書けばいいのか非常に難しくて頭を悩ませています。それは受け手の立ち位置、つまり今居るフェーズによって間違って受け取れる内容にどうしてもなってしまうからです。(今の私の力だと)なので、今は公に大々的には発信せず(というかできず)、ある程度フィルターをかけて一部の人にだけシェアし始めるということからスタートしています。

でも、そもそもこういう世界があるんだよってことすらふつうは知らないので、まず知るってことがとても有益なのもわかります。下地ができている人から伝えていきたいと思ってシェア会をはじめてみているところです。

私自身、その第一回シェア会までにもまだ日があり一日一日でも全然今までの比にならないスピードで覚醒、理解をしているところなのでもし興味のある方は引き続きチェックしていてください。

 

人によってカードがオープンされるタイミングや、オープンしたくなるタイミングは違います。そして、それは私がどうこうすることでも促すことでもなく、その日がくればあなたはそれを選択せずにはいられなくなるし、そうでなければそうでないってだけの話になります。

 

ただ、私が人のためにできること、これは今立たされてるフェーズからして、やるべきことだと直感するのでこのまま探求を深め上へ上へと目指していきたいと思います。

卒業アルバムと亡き母の写真たちもありがとうさようなら

断捨離は心の執着や手放しと比例しますね。

物を持つことで、使ってる、使ってない、役立つ、役立たない関係なく自分の中の何かが補完されてる感じですよね。

 

固定観念や強迫観念、こだわり、執着…あるにはあるのだろうけど、どんどん無くなっていくにつれ、部屋の中の物の多さが気になるようになります。それまでは何とも思っていなかった景色のような物達が余計に感じたり、不自然で、私の脳みそにノイズや不協和音を起こして混乱させてきます。

 

私、思うんですけど、忘れ物、無くし物、遅刻などが多い人って物が多すぎる人なんですよね、きっと。自分の周波数にもう全然あってないものたちに囲まれすぎてて混乱してるんだと思います。

 

私は、またそんな感じで家中を見渡して、昨日は炊飯器、電子レンジ、ソファクッション、ホットカーペット、こたつを処分しました。

 

今日は着物をダンボール2箱分とアルバム全部。10年前に行った母のお葬式の芳名帳一式も処分しました。卒業アルバムや子供の頃の写真、前の夫との写真なども見る機会もこの1年で1回もなかったし、今後も不要なのでありがとうさようならです!!

黙すること、秘すること

何でもかんでもアウトプットして、話していいフェーズは終わったみたいだ。

ここから先は自己に集中し、さらに磨きをかけていけばいい。

 

で、私は黙すること秘することというのがこれからのテーマのようだ。

 

宇宙や神からそれ以上はしゃべっちゃダメだよってストップがかかる。あんまり教えてはいけないと言うよりも、教えるってどういうことか、私は何なのかがわかったとき、これは無意味なことなのだと理解した。

 

ここまでやってきて言えることは愛するってことを体験出来る奇跡。そういう星を選んできたのを嬉しく思う。

ありがとう、さようなら

舞台に立つ、創るというのは、そのままの私でないと意味がなくそれ以外の方法を私は知りません。

 

今回、Bolero公演中止とさせて頂きました。

チケットを早々にご購入いただき公演を楽しみにしてくださっていた皆様に心よりお詫び申し上げます。大変申し訳ございませんでした。

 

恐らく、一週間前の私であれば全くもって問題なく公演続行可能だったと思います。今年、年明けから非常に変化の速い流れの中におります。昨日の私はもう別の人間で、明日の私は今日の私とは意識、言動が変わるくらいに濃い時を過ごしてます。

 

私が今回続行不能と決断した理由は、今までの私であればほんの少しの私の我慢や犠牲、頑張り、無理で乗り越えられるものは強行突破で乗り越えてきました。小さな違和感やザワザワは見ない振りして現実を捻じ曲げてきました。

 

しかし、この生き方は、私が次の作品として提示する私の生き様という作品ではもう終わりを迎え卒業したことで、今の私は「頑張らなくても幸せ」、「無理をしないお姫様でいること」これが私が世に提示したいあるがままの私になっていたことに気が付いてしまいました。

 

純粋なエネルギーのみで作品という自分に向き合うことでしか、私は舞台に立つことができません。

 

一度言い出してしまったこと、既に多くの方にご協力いただき、チケットを購入してくださった方もいる中で、期待を裏切り、迷惑をかけ、多大な損失を与えてしまうこと、私自身も信用を失うこと、よく理解した上で、それでも続行することは原理原則に背き、私が私で居られなくなることになるためどうしても続行することができませんでした。

 

そもそもの決断の熟慮が甘かったことと、自身の状態把握が的確でなかったことが原因です。

 

現在の私はまだ蝶になる前のサナギの中のグチョグチョでした。これを早まってバーンと表に出したところで形になりません。それっぽくは見せられるでしょう。けど、本当の本当の本当に本質をついたものができているかと言うと1ミクロンの差で偽物になります。

 

私が舞台上で見せるものは、本物でしか在りたくないと思っております。本当は大瀧冬佳として年に1回ペースで公演を打っていきたかったですが、それは私のつまらぬこだわりだったと気が付きました。

 

私が出来るのは6年や8年や10年に一度くらいのペースになるのだと思います。大瀧冬佳第一章の集大成としての26年分のMaoであり靈でした。大瀧冬佳第二章はまだ始まったばかりできっとこれはいつになるか分かりませんが、まだ早かったのです。今ではありませんでした。

 

きっとその頃は私の周りの環境はまるで次元が違うものだと思います。人もきっと違うのだと思います。

 

そうそう作品なんて生み出せるような器用な人間では私はなくて、長い年月と変化の日々の自分に集中した丁寧な積み重ねが2時間弱の作品にいつかなるかもしれないし、ならないかもしれない、のだと思います。

 

形はダンスでなくなる場合も大いにありうるし、変わらず踊っているかもしれない。

 

私は今、過去を完全に切り離しました。不幸だった私だから感動したり、応援したり、そばにいてくれた人には「ありがとう、さようなら」と言ってこの延長線上ではない次の次元に既に私は入っていました。

 

きっともう、私に違和感を覚える人はそこそこいて、私の変化と手放し、気付きが進めば進むほどに、人がいなくなっていくのかなと思います。まだまだ序章も序章なのでこれからだと思ってます。

 

でもホント、それでも行きたい場所、叶えたいもの、なりたい自分があるので私はもう振り返ることは一切ありません。

 

 

ありがとう、さようなら

が全てです。