大瀧冬佳のブログ

男児4人の母が幸せな人生のために暮らしと経済と意識について語るブログ

絵画にお金を払うという価値観

クリエイターとして相手がいての制作と、アーティストとしての宇宙に向けての創作と、エンターテイナーとしての観客に向けての表現って同じ「つくる」かもしれないけど、全く種類が異なるもののように感じる。

 

それで「絵にお金を払う」「舞台にお金を払う」「ライブにお金を払う」「携帯ゲームに課金する」「旅行にお金を使う」「美味しい食べ物にお金を払う」「エステにお金を使う」

 

有形無形、様々。消えてなくなるもの、形として残るもの。体験を買うもの物を買うもの。

 

世代によっても、育った環境によっても、もう全然違う価値観なんだ。

 

最近の若い子たちが携帯ゲームに課金するとか、ほんと意味不明な世代って絶対ある。その場の「楽しい」にお金を使う。何かそれで自分の学びになるのか?得るものはあるのか?という思考がはたらく。けど、そういう概念のない世代からしたら何でそんな30年ローンとかくんでまで家を買うの?車、いる?物多すぎじゃない?みたいなそっちはそっちでそこに価値を感じない。

 

で、

どういう人がこれに価値を感じてお金を払って欲してくれるのかな?と考えてそこに提供していくという考えもそうだけど…

 

私はアートにお金を払う感覚のあまりない人たちに舞台を観るってこんな感じですよって広めることに今のところ成功している。

その際、「アートってこんなにいいんです!」って喋りまくっても元々興味ないから聞いてくれない。だってそうでしょ??お父さんお母さん世代に携帯ゲームの良さを語っても「へー」って感じだと思う。けど例えばオリンピック選手の金メダリストを育てたお母さんが子供の頃から好きなだけ課金させて遊ばせてました!それがあったから自主性が育ちました!とかインタビューで語っているのを聞いたらたぶん「え?いいかも?」って興味持つと思う。(因みにこの話は私が適当に作った話なので信憑性はゼロです)

 

それと同じ感じで、私という人間に興味を持ってくれたあとから「あ、作品をオリジナルでつくって、踊る人なんだ!冬佳さんが踊るところを見てみたい」って感じで入ってきてもらえている。

 

だから、絵に何万も使う人がいるのかな?とか、これにお金を払って買う人なんかいない!じゃなくて、そういう価値を築いていくのもアリだ。

 

職業だって、今はいろんな職業が生まれていて、でもよく考えたらどの職業も最初は誰かが作ったもの。必ずしも今ある職業の中からしか選べないとか、なれないなんてことはない。

 

私ももう全然ダンサーとは言えない感じで…ダンサーと名乗るから誤解が生まれたりしてる節が最近多々あり、ダンサーやめようかなって思ってる。アーティストとか表現者という方がしっくりきてる。漠然としすぎているので、もう少しみんなが聞いたときにイメージしやすいものにできたらいいが、そもそも私と同じことをしている人がいないから、イメージも浸透させるほかない気がしている。

 

 

 

 

苦しくなったら視点をズラす「にわか」と言われても好きだと言う

私への批判で鉄板なのは「言うほどダンス上手くない」って言葉。特に同業者から嫌になる程「影で」言われているのをあとからちらほら聞くのが多い。「言うほど」って誰が言っていたのだろう。

賞賛される分、目立つ分、そう言うこともある。

肚の中が結構透けて見えてしまうので、辛いな〜と思うこともある。この空気苦しいなって。

 

人は苦境を乗り越えて栄光を手にした話がとても好き。そう言うときはとてもポジティブなパワーが働くけど、あまりいいものではないって個人的には感じる。変動しやすいものだからだ。熱狂って良さそうでも、潮が満ちて引いていくときの力は海と同じで凄まじいものがある。

「もしかして自分の中にもこんな気持ち芽生えちゃってないか」とよく胸に手を当てて考えることもあって、人が落ち目になっていくとき、下火になっていくとき、スターダムから転げ落ちていくとき、「ほら見たことか」とそう言う気持ちになっているときはないかと気をつけている。

特にその人が前々から気に食わなかったり、嫉妬していたり、そのやり方解せぬ!って思っている人だったりしたら、人ってここぞとばかりにのかっていく。それまで、黙っていたのにね。誰かが「ほらやっぱり!」って言い出したら、「そうだ、そうだ!」と乗っかって、その人がどんなにか非道なことや倫理に反することをして得た栄光だったとしても...だからと言って、そのほかの人間が袋叩きにしていい理由にはならない。

いや、袋叩きにしていいかよくないかってことではなく、私はもしそれをしている自分になってしまっていたら、あまりに卑しすぎて、自己嫌悪に陥りそう。

「子供がいるのに、ほったらかして、不倫してたみたいだよ。旦那にバレて、家庭崩壊したんだって」とかね。

「盛って話して、荒稼ぎして、中身が伴わないから、今は落ちぶれてるみたいだね。やっぱり本物しか残らないよね」とかね。

それを言ったり、思っている自分は一体なんなのかと。そう言う気持ちになってしまう。

 

で、そのマイナスパワーには負けない心と自分を持とうって思うのだ。

 

話変わって、なんか別にその枠の中で必死に耐えたり、足掻く必要もないのかなってこともある。その人の当たり前とか、評価ってもう本当にびっくりするくらい絶対じゃない、どころか真逆のことを言う人だっているくらいだ。その人の言う「世間一般」ってせいぜい身の回りにいる10~20人くらいの人の常識のこと。本当に自分がいる場所が変わると「世間一般」なんて180度展開することもあって、とってもとっても自分は狭い世界で生きていると知ることが、苦しくなったときそこを脱する策かなと思う。

 

ダンサーには、高くまっすぐ上がる脚や、綺麗な甲が相手のダンサーを尊敬する上手さの象徴だったりするわけだ。フェッテが回れるとかね。私はバレエダンサーの美しい甲や背中の切り抜きを集めてノートに貼っている。そしてそれを夫に見せて、「いいよね〜私もこんな背中になりたい」と話したのだが、全然理解を得られなかった。

 

その背中が綺麗なの?その背中じゃないとダンサーとして微妙なの?

 

ダンスとか全然関わったことない人がダンスの舞台を観にきてくれるとき、全く違う視点で観ているってこと。完璧な人間なんていない、自分の理想を人に求めてきて、勝手にそれを裏切られたと言う。

どんだけすごいと思うひともただの人で、間違うこともあれば、だらしなかったり、全然人よりもできないことだってある。

 

私がこれからも変わらず思うのは、今後も多くの方の期待を裏切っていくだろう。「思ってたより大したことない」と。期待して損したと。でもそれが表舞台に立ち続けるってことなのかと思うし。「本物じゃない」とか「にわか」だとか「微妙だよ」って影で言われても、でもそれでも私は踊るのが好きで、踊らせて欲しい。まぁ、自己満足で立ってるのは本当に迷惑なので、やれるだけのことは全部やった上でって言うのは自分への誓いと言うか約束です。

 

誰のために踊るのかなって考えていた、一晩中。

まず、同業のダンサーになんて思われるかってために踊っていたんじゃないって気付いて、そして、私は私を見にきてくれるお客さんのために踊っているのかもって思って、そして最後に何より自分のためだって思った。

私は真摯に自分に向き合い続ける他ない。自分に向ける眼差しは誰より厳しく、せめてね、心が綺麗じゃない自分は舞台に立つ資格ないと思うので、心も体も私のベストでい続けたいって思って生きてます。踊りは生きることそのものだと思うので、卑しさみたいなのは極力自分で処理していきたい。稽古も言わずもがな、ストイックにやって。

けれど、それでも応えられないことよくあるから。もうこれは仕方のないこと。

 

もっと器用に生きたいな、とよく思う。

 

ダンスカンパニーUzme鎌ヶ谷地方公演

Nostalgiaノスタルジア11/27(火)

11:00/14:00(上演時間30分予定)

スタジオエンゼル
東武アーバンパークライン鎌ヶ谷
新京成線初富駅  徒歩10分
千葉県鎌ケ谷市南初富4-13-40

チケット 一般 2,500円/当日 2,700円

【11/27 11:00/14:00】鎌ヶ谷公演nostalgiaチケット | ダンスカンパニーUzmeチケット

 

 

 

モノの見方、ざっくり3タイプ「長距離型」「中距離型」「短距離型」

夫婦は話し合いが欠かせない。ましてや私たちは共に事業を興していこうと考えているし、そもそも子育てや生活は一大事業のようなものなのでビジョンややることのすり合わせ、そしてほんの少しの違和感なども互いに指摘しあったり、話を聞いてもらったり聞いてあげることでうまく稼働している。

 

「人と自分は違う」

 

ということが案外わかってないんだな!と人と深く話すたびに思い知らさせる。誰もが自分と同じような感覚や考えを持っているとは流石に思わないが、それでも「全然違う」の全然がどれくらい全然なのかまではやっぱり触れてみるまで気付けない。

 

今回は「目標」や「ビジョン」「日々の視点と10年後の視点」「ミクロとマクロ」というものの見方が全く違うことを夫と話してて衝撃を受けた。

 

人は程度の差はあれ目標達成のためのビジョンを描く力にも

長距離走

中距離走

短距離走

がいて、これらは

長距離走型→ロマンや理想を強く持てるアーティストや社長タイプ
中距離走型→非現実的なロマンをどう実現するかが得意な副社長やプロデューサータイプ
短距離走型→プロジェクト化されたものを細かく処理しやすいものにし指示、管理するマネージャーやチームリーダータイプ

 

になることがここ最近わかった。(私調べ)私は思いっきり【長距離走型の生粋のアーティスト、社長タイプ】なので、遥か彼方すぎて今のここからは見えそうにもないビジョンもありありと描け、目先のことで判断しないので他人からは「そんなの怖いよ」と思われる決断も長期スパンで見たときには取るべき選択なことも多々あるのでバンっと潔く決めることができる。そしてロマンや理想の中で生きていて、現実派からしたら「希望的観測で語る脳内お花畑ちゃん」である。

社長やアーティストはその個性がむしろ大事である。私はその大きな理想をボトムダウンして日々にまで落とし込まないとその目標はまさに絵に描いた餅になることも動物的勘でわかるので、これを苦手ではあるがボトムダウンするためにピントを中距離、短距離と近づけ「現実的思考」に一生懸命合わせ実行してきた。

 

規模感が個人の中途半端なダンサー止まりであればこれでも問題はないし、不自由もなかったのだが、明らかに現在打ち止め感を感じるし、下火なことに焦って何かが空回りし、エネルギーがうまく循環されていないとか、私が私らしくない方向に行ってしまうモヤモヤを感じていた。

できるからやるではなく、「あ、私できないわ」ということに気がついた。完膚なきほどに「あ、できない」ってわかった。それまでは「私の方ができるし、自分の舵取りは私にしかできない」くらいに思ってまぁまぁ生意気だったのだが。いや、そのプライド本当に恥ずかしいよねって思えるくらいやりきったでもできなかった!!!

 

そして元来「中距離型」「短距離型」は鼻くそほじりながらできるくらい簡単なことなわけ。それを「私だってできるもん!」って徹夜でもしてやろうとする私は愚かである。

 

あそこに行こうと決めたとき、私レベルの中距離、短距離では太刀打ちできないし、長距離の方ももっとそこに集中すべし!!!!としか考えられないところにきていた。

 

夫と話していて、お互い笑ってしまった。

私が当たり前にできることが、夫にとってはちんぷんかんぷん。そしてその逆ももちろん起きる。何でこんな簡単なことができないの??みたいなことがお互いゴロゴロある。そして、自分の当たり前は人には非常識だったり理解不能なレベルのこともあることを知り、適材適所での協力体制を敷きみんなで繁栄の方向にガコンとシフトチェンジできた気がする。

 

自分と相手をよく知ること

よく知るには「まずはやってみる」がないとわからないこともたくさんあるが、修正を常にかけ続けるくらいによーーーーく自分と相手と空気感を観察することが大切だ。

 

大瀧冬佳はアーティストとしてやっていく

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photo  by bozzo

 

と、決めると。魂が喜ぶし、心がほっこりあったかくなる感じもするし、顔もスッキリ穏やかになる。余計なこわばりがとれる。

 

よくよく考えたら、転けるときは不得手なことを一生懸命やってるとき。「生きるのが下手くそ」だとか「協調性がない」とか言われてしまうことにビクついて、自信をなくしどうしたらみんなと同じように「ふつうに」なれるかな、できるかなって思考に陥ると途端にものすごくよくない流れになって行ってしまう。

 

苦手を克服しようと苦手な部分にフォーカスするのは実は解決には結び付きづらい。全体のパワーは落ちてしまうことも多い。特に長距離走型アーティスト社長タイプは。

 

よくわかったのは、「中距離型」「短距離型」には嘘でしょ?って思われるくらい、ピュアで子供のように信じるし、吸収する。裏表がなく、なさすぎて裏があるのではないかと疑われがち。思い込みが激しい、裏を返せば全力で相手を信じる。先入観は置いて目の前の相手を真っ直ぐに信じるし、基本的に目の前のことに全身全霊で飛び込む。

 

なので、「あぁ、私ダメなんだ」ってなってしまうと全力で落ち込む。生きてるだけで公害かも…人様に迷惑をかけてしまうなら口を封じた方がいいかも、姿をくらますべきか…みたいになることもある。書いてて、やばい人だなって自分で思うけど…超絶不器用だ。

 

でもこれは良さでもある。なので、ソロ公演あたりから思っていたのだけど、私はマネージャーやプロデューサーにいてもらった方がずっと私らしく生きられるし、能力を発揮できる気がする。そう考えたら、また1㎏くらい軽くなった気がする。(ダイエットも思い込みで痩せられてしまうタイプでもある)

 

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ひふみ祝詞を奏上しながらのストレッチ

ひふみ祝詞を唱えながらの、猫のポーズをKAYAメソッド®︎の中丹田を特に意識する形でやってみました。

ひーふーみー/よいむなやー/こともちろらね

 

の3/5/7のリズムでいきます。喉の第五チャクラと眉間の第六チャクラを噛み合わせて、前に吐く息と祝詞にのせて放つようにすると、今まで短めだった背骨が長くタイトにアーチしていく感覚が掴めました。掴みやすい。

 

特に頭蓋骨と胴体のところが繋がって伸びていく感覚がとても気持ちよく。ひふみ祝詞は日本語の美しさに心が澄んでいき、脳もクリアになりました。

 

これはすごい。

 

Uzmeのベーシックレッスンに取り入れていこうと思います。

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ダンスカンパニーUzme鎌ヶ谷地方公演

Nostalgiaノスタルジア11/27(火)

11:00/14:00(上演時間30分予定)

スタジオエンゼル
東武アーバンパークライン鎌ヶ谷
新京成線初富駅  徒歩10分
千葉県鎌ケ谷市南初富4-13-40

チケット 一般 2,500円/当日 2,700円

【11/27 11:00/14:00】鎌ヶ谷公演nostalgiaチケット | ダンスカンパニーUzmeチケット

 

 

 

人を非難したくなった時は自分の何が反応しているかを知るチャンス

何でも感謝、感謝言う人が苦手だった。

清らかすぎて嘘くさい、そんな感覚を持っていた。

今はそうは思わない。

その人が嘘をついているか、心からそう思っているかを見張る自分が嫌になった。感謝感謝言う人に対していちいち反応する私こそがなんか嫌だなぁと思うように。

私は何様かと。

 

それは他のことに対しても同様に。

他人を見張ったり、とやかく言う私はもうやめた。時々言ってしまうこともある。その時無理に我慢はせず、言うときは言うけれども、明らかに変わったのはなぜ自分がそこに引っかかるのか、私の何に触れているのかを内観するきっかけだと捉えるようになった。

すると、自分のちっちゃなこだわりだったり、可哀想で認めて欲しかった自分が出てきたり。小さく弱い私がそこで頑なになってることが多い。

自分を知るきっかけになる。

感謝感謝言う人にいちいち反応してた私は、口だけの感謝じゃなくて心から感謝してもらうべきって思ってたんだろう。何でも感謝で片付けるな!と思ってた私こそが感謝にこだわってたんだなーと気付くきっかけに。

すると、私は誰かに心から感謝してもらうために何かをしてるわけじゃないんだったな!と一つ自由に軽くなれるのだ。口だけの感謝をする人がいようがいなかろうが気にならなくなる。

そこをそんなに重要視しなくなったからだ。

 

さらに、私がいろんなものに自然に感謝の気持ちを持てるようになった。

 

自分の何が反応しているかという視点、結構使えると思う!

 

日本人の血に流れる神道が素晴らしい!神道の現代の生活への応用

神道は私たちの生活に密着していた

私自身、日本神話や古事記日本書紀など神様系のお話を知るようになったのは実はここ二、三年の話でそれまで無縁だった。神様なんてこの世には存在するわけない!無宗教だし!私!と言った具合に生きてきたのだが、これは大きな勘違いであったようだ。

そもそも、神道とは宗教ではない。〇〇教という教えではないので、誰かや〇〇神を教祖とするものではなく。日本人は全てに神様が宿ると考えてきていて、それは人の生きる「道」としてのものなのだ。

(「宗教みたい」と揶揄することもそれはあまりに宗教の定義が狭すぎる中での話で宗教をちゃんと理解しているものからすれば意味がわからないのではないかと個人的には思う。)

それで、お正月や、七五三、節分、お宮参り...これら全て神道に基づくものだったので、無縁どころかめっちゃ神道に沿ってみんな知らず知らずに生きているわけだ。

 

八百万の神様を敬い、四季の移ろいと恵に感謝する神道は日本古来のものとして私たちの生活に根付いていたわけ!!

しかし、神道は宗教として聖典や戒律もないので、はっきり「私は神道を信じている!!」という認識はほぼみんな持っていないということだ。でも、文化や価値観は紛れもなく神道。宗教というよりも生活背景と言った方がしっくりくる。

 

お神輿も山車も、神楽も、もっというと湯船に浸かるというこの文化も神道そのもの。これってすごいな!!と思うわけだ。緩やかながらもしっかりと私たち日本人は神様と繋がった文化を生まれながらにして持っているってこと。

 

私が意識し始めた神道の応用

・朝の掃除

玄関にはアメノイワトワケさまという神様が。神社でいう鳥居であり、外の世界と自分の家である神域とを隔てる結界として出入りする祓いの場所にしたい。

居間は氏神様。台所は竈神。お風呂と洗面所はミツハノメさま。トイレは厠神。寝室には枕神。クローゼットには納戸神。鏡にはイシコリドメさま。庭には屋敷神。不要品にも付喪神がいらっしゃるので、感謝を持って破棄する。

 

思えば、私が芸事一筋、弟子入りしていた頃は、朝早く、お稽古場に到着したらお稽古場全てに感謝しながら大掃除から一日を始めさせられていた。チリや指紋一つないくらいにピカピカにしてから稽古が始まる。そうして、道具や場所に感謝して、向き合うその心が芸を磨くと教えられてきた。

掃除をしていると自分の内面も清められていくので、1日のスタートにとてもいいなと思い、我が家では家族総出で箒とハタキと雑巾を使っての掃除から1日を始めることにしている。その際「ありがとう」と言葉にして、言霊を使って家の気を上げていくようにしている。

 

・お風呂に入ってパジャマを着る

身嗜みは自分を清めるのにとても大切なこと。「嗜む」は悪い結果にならないように気をつけるという意味なので、休みの日だからと言って、一日中パジャマで過ごさないようにする。

イザナギが黄泉比良坂を引き返して、黄泉の国から戻ってきたとき穢れた身を清めるのに身につけていた服を全て脱ぎ捨てて川に浸かり身をすすいだそう。その脱ぎ捨てた衣服からは煩いをもたらす神が生まれたそうだ。なので、脱いだ服はなるべく脱衣場に長く溜めないように速やかに洗濯する事。このイザナギの禊は日本人の入浴にとても似ている。風呂から出たらよく汗を吸収する自然素材の新しいパジャマに着替えて、毎日同じパジャマを着ないようにする。

穢れをすすいだ清らかな水につかるイザナギからは三柱の神様が生まれた、その一柱が天照大神

湯船に浸かると生き返る感じがするけれども、これはあながち間違いじゃないというか、その日電車に長時間乗ったときやたくさんの人にあったとき、汗や砂埃にまみれたときはゆっくり塩風呂に浸かりたい。

 

波動が下がっているときは遅刻や不始末が多くなる

小さなうっかりミスが大きな災いをもたらす。大事件とはたまたま運が悪くていきなり起きたというよりも小さな小さなミスがたくさん重なった結果引き起こされるケースが多い。

自分や家の気が乱れ、波動が下がってくると、ミスが多くなってしまう。そんな時こそ、一つ一つに感謝をして、丁寧に暮らす。日々の暮らしの中で私たちの心身に垢のように積もり積もっていく罪穢れを清めて祓う。生きているだけで、他の命をいただいているし、それは罪なのだ。人にも迷惑をかけたり、思わぬところで人を傷つけてしまっていたりもする。

なので普段から、そうしたことをしながらも生かされていることに感謝して、生活したいな〜と思う。

 

【食事編】本当に体のためを考えたご飯を摂るのにやっていること

私が食べることで大事にしたいポイント

・美味しくて体にいい!!(これが一番)

・いい気持ち(感謝の気持ち)で食べられること

・エンゲル指数が多少高くなっても惰性の外食を避けるくらい美味しい家ごはんをつくる

・旬のもの、地産地消、素材そのままをなるべく

【環境づくり】圧力IH鍋は買い!

・圧力IH鍋

象印でもティファールでもお好みで!因みにウチは象印の「煮込み自慢」どっちでも使えるから、大丈夫。

三河みりん

他、醤油や料理酒もスーパーで売ってる系ではなくちょっと良さげな調味料を調達すべし。ここは良いもの買おう。

・お気に入りの魚屋

・お気に入りの肉屋

【買い物】スーパーでなく魚屋で買う!

・魚屋、肉屋、八百屋は旬のものがわかりやすいし、美味しい食べ方や調理法も教えてくれる→自分で調べる必要なし!楽!美味い!

・節約したい場合、ダイエットしたい場合、キッチンの片付けあんまりしたくない場合、多国籍料理に手を出さない→和食一択

・ズボラさんが家ごはんで一番手を出しちゃいけないのは1タイ料理2インド料理3製菓・パン系→調味料がやたら多い、慣れるまで難しい、3は後片付け萎えるから

・和食一択でも圧力IH鍋があるとプロレベルかつ栄養満点のものが家で手軽に食べられる→その分みりん、醤油、料理酒、出汁類、食材にお金かけても問題ない

・主菜を圧力IH鍋に、副菜を漬物など、+味噌汁で体にいい、簡単、美味しい

・米はいいもの買う→コメが美味しいと幸せ

【調理】圧力IH鍋を使い倒す

・自分の調理時間は10分以内に収める→スライサー、キッチンバサミ、などいろんなものを駆使

・圧力IH鍋で切って、ぶっ込んで、ボタンをポチッと調理終了→プロの料理より美味い

・圧力IH鍋が稼働してる間に味噌汁等他のごはんの準備

【その他】手間を無駄にかけない

・なるべくなるべくIT化!!!

・生産性を上げていく!!!

・しかし買い物はネットを利用せず、八百屋や魚屋、肉屋で買う→季節を感じたり活きのいい新鮮なものを摂れる、食べ物のストーリーを知ることができ食べ物に感謝できる